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天正12(1584)年4月、
家康は「小牧・長久手の戦い」で
対する秀吉への実質的な勝利を収めた。

これにより、家康の名は広まったが、
秀吉軍もまだ余力を残した状態で
油断はできない。

しかし、
やっかいなことは、昌幸の暗殺失敗だ。

沼田の問題がこじれ、北条が敵に
まわるようなことがあれば、
徳川は秀吉と北条の挟み撃ちにあい、
致命的な痛手を受ける可能性も残されている。

まして、
真田が上杉にでもつけば、
事態はことさら面倒なことになる。

家康の心配性は尽きるところを知らず、
正信は思わず苦笑した。

一方の昌幸は、
実際に上杉と手を組もうとしていた。

家康と手を切るためには、上杉の力が必要だ。
帰属したいという書状を送り、
景勝に断られたが、凝りもせずにまた書状を
書き送るしつこさに、景勝はへきえきしつつも、
「何でも意のままに従う」との文言を見て、
昌幸が無理難題をどこまで受け入れるのか試すことにした。

その条件とは、
信繁を人質として上杉に差し出すことだった。

昌幸からこの話を打診された信繁は
二つ返事で引き受け、三十郎を伴って
越後へと旅立った。

信繁にとって、
景勝とは義を重んじる男という印象であり、
嫌いではなかった。

ただひとつ心残りがあるのは、
身重の梅のこと。
人質は命の危険が伴うが、
生きて帰り生まれてくる子の顔が見たい、
その一念を抱いての出立となった。

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春日山城に到着した信繁は、
しばしの後、景勝と対面した。

景勝が人質として信繁を指名した理由、
それは昌幸に息子を差し出す覚悟と度胸があるかを
試しただけではなかった。

景勝もまた、信繁という若者に
どことなく魅力を感じている部分があったからだ。

以前、命をかえりみずに戦芝居をしてほしいと
頼みに来た信繁は、
必ずこの賭けに勝つという自信に溢れていた。

「会いたかったぞ、源次郎」

景勝は信繁を歓迎し、仏間に招き入れた。

「上杉は『義』のある戦いしかせぬ。
謙信公の教えじゃ。
沼田の一件の折、お主は誰も死なせずに、
北条を追い払ってみせた。
民を大事にする謙信公の心を、
わしはそこに見た」

それは、信繁にとって、
これ以上ない褒め言葉だった。

それから数カ月が過ぎた頃、
上田城の昌幸に、直江兼続からの書状が届いた。

「沼田城を上杉に返してほしい」旨が記されている。

沼田城は、遡れば、上杉が支配していた城だが、
今は真田と北条が取り合っている。
上杉に渡すのなら、人質を出してまで
上杉に支援を求めた意味がない。

またも難題をふっかけて
真田の本心を探ろうとしているのだろうか。

兼次の真意を測りかねた昌幸は、
この問題の解決を信繁にゆだねた。

昌幸から問題の解決を依頼された信繁は、
結局、この疑問を率直に景勝に
ぶつけてみることにした。

すると、
意外なことに、景勝が言うには、
他国との談判はすべて兼次に任せていて
今回の事案についても景勝は知らないというのだ。
「兼次に掛け合ってやってもよいぞ」
そう景勝は心やすく請け合った。

何日かして、信繁と三十郎は、
漁民たちが春日山城に来て、
漁獲と漁場をめぐる争いの一件で
早く裁いてほしい、取り次ぎの小姓に
訴えているのを目撃した。

しかし、何も進展しないまま、
漁民たちは追い返されてしまった。

そのすぐあとに
景勝と兼次が来た。
景勝は問題の解決を先送りにしているのが
心苦しいのか、事情の説明を兼次に任せて
離れていく。

兼次は、ため息とともに景勝を目で追った。

「困っている者を見ると、
まず先に力になると約束されてしまう」

気持ちに偽りはないが、できない約束を重ねることになる。
領民のもめごとはあとを絶たず、
ひとつをおさめても、次から次へと際限がない。

戦で疲弊した今の上杉に、それだけの余裕はない。

一方の景勝は、戻ってきて、ぽつりとこぼした。
「今のわしには、
話を聞いてやることしかできぬ。
・・・これが本当のわしの姿じゃ」

景勝は素顔をさらし、期待を裏切ったのではないかと
信繁を見つめた。

しかし、そんな思いとは裏腹に、
景勝に対して、より一層尊敬し慕わしく感じた
信繁は、そのありのままの思いを
まっすぐに景勝に伝えたのだった。

そう述べるうちに、はたと気がついた信繁は
「ひょっとして、例の沼田城の一件も・・・」
と切り出し、
案の定景勝から兼次へのとりなしが
されていないことに気が付いた。

しかも、昌幸に沼田城を引き渡す意思が
ないことを知ると、兼次は態度を硬化させた。
「上杉は、真田とは手を結ばぬ」

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信繁と景勝は、春日山城の望楼に登り、
直江津の港を遠くに見渡した。
越後は、謙信が存命中に、直江津、柏崎、
寺泊などの港が栄え、国が大きくなった。

今は船の数も少ないが、
いずれにぎやかな港を復活させたいという思いが
景勝の胸のうちにあった。

この日は晴天で、
信繁、三十郎は陽気に誘われて海へと向かった。
景勝も、笠と頭巾で身分を隠してあとに続いた。

馬を勧めていくと、漁民たちが
騒いでいるのに出くわした。
信繁が何事かときくと
「鉄火起請(てっかぎしょう)が始まるんでさ」
との答えが返ってきた。

鉄火起請とは、もめごとを収めるときに
神の判定を仰ぐ儀式のひとつで、
意見の異なる二人が、熱く熱した鉄を
素手で握り、指定の位置にある神棚の三宝まで運ぶというもの。

無事三宝まで運べた者が勝ち、
途中で落とした者は神をたぶらかした敗者として
処刑されるというものだ。

境内には対立する北浜の長・治兵衛と
南浜の惣代・又吉がいた。

そして、その二人を取り仕切っているのが
斉木という名の奉行だった。

「お奉行は、これでまことに正しい裁きに
なるとお思いですか」
信繁の問いに、
「もちろんじゃ。神の御心を承るにはこれが一番」
斉木はと即答した。

信繁は鉄火起請などやめたほうがいいと考えた。
しかし、
斉木は古来のしきたりなのでやるべきだと言う。
漁民たちだけでなく、
信繁と斉木の意見もまた対立し、まるで収束する気配がない。

「鉄火起請、私たちもやりましょう」
信繁がそう切り出すなり、
万事を心得ている三十郎は、さっさと支度を整えた。

信繁は自身満々の面持ちで、
赤い鉄の棒の前に向かい、精神の集中を始めた。

これに動揺したのは斉木の方。
鉄火起請で決める必要はないと突然前言撤回をして、
漁民を混乱させた。

「もうよい。すべては、わしがいけないのだ。
もっとお前たちの暮らしを思いやるべきであった」
景勝が、笠と頭巾をとり、
漁民たちは思いがけず現れた国主に驚いて土下座した。

漁民たちは、
毎年アサリの収穫量の多い桟橋が南北
どちらの浜に帰属するかで対立してきたという。

そこで、信繁が、南浜と北浜が一日交替で
漁をするという案を出したが、
潮のいい日と悪い日があって不公平になると
却下された。

そのやりとりを聞いていた景勝が、
ふと思いついて切り出した。

「潮の変わり目で分ければよい。
満月が来るたびに桟橋の漁を変わるのだ」

この案には漁民たちも納得がいき、
景勝の裁きにより一見落着となった。

城への帰路、景勝は信繁の策士ぶりを
面白がりながら、大事なことも教わったと伝えた。

民の暮らしを守ることが、
強い国を作ることにもつながると。

「お主のような子が欲しかった」
景勝の言葉に、信繁の胸が熱くなった。

それからまもなく、
梅は無事に女の子を出産し、
「すえ」と名付けられた。

吉報に信繁が喜んでいると、
兼次から呼び出され、景勝から
そろそろ真田を許してやれとの口利きが
あったとのこと。

「徳川と北条に譲らぬ真田の覚悟、
こたびは真と認めよう。
上杉は再び真田と手を携える」

兼次が、景勝の起請文を差し出した。
そこには、上杉は真田の庇護と援軍の派遣を約束し、
沼田や小県を真田の領分と認めると記されていた。

起請文を受け取った昌幸は、すぐさま
家康に書状を送った。
その書状には、
真田と徳川の手切れが宣言されていた。

家康は面目丸つぶれだ。
敵に城を進呈したことになり、
ここに至っては真田を滅ぼすほかない。

徳川は、天正十三(1585)年八月、
およそ七千の軍勢で上田城に向けて
進軍を開始した。

これを迎え撃つ真田の兵は
わずか二千。

このような情勢下では籠城戦が定石だが、
徳川も対策を練っているはず。

景勝も援軍を出したいが、上杉にも
自身が抱える戦に兵力を動員しており、
十分な余裕はない。

信繁は、景勝の気持ちだけでありがちが、
もし許されるなら、一つだけ厚情にすがりたい。

「真田の行く末がかかったこの戦、
どうしても加わりたいのです。」

「存分に戦って来い。
そして、戦が終わったら、必ずまた戻ってこい」

景勝の激励を受け止め、信繁と三十郎は
春日城を発ち、急ぎ馬を駆った。

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